信長と大須古渡城跡天文3年(1534)織田信秀が築城した。信秀はそれまで今川氏豊から奪取した那古野城にいたがその子信長に那古野城をゆずり、ここに移った。信長はここで天文15年(1546)13歳で元服した。城は東西140m、南北100m、周囲に二重の堀を巡らしていたといわれる。天文17年信秀が末森城に移り、信長も清洲城にはいり廃城となった。<名古屋市教育委員会> 東本願寺別院境内中区橘2丁目8番地13歳の信長は、古渡(ふるわたり)城で元服し、幼名吉法師改め織田上総介信長と名乗っている。現在は、城跡の石碑をのぞいて当時の面影をとどめるものはない。
昭和16年名古屋市瑞穂区岳見町に移転するまで大須に在った寶泉院の山門 参考に熱田神宮の信長塀をご紹介
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織田氏略系図
大雲永瑞大和尚信秀の伯父にあたり、白坂、雲興寺の八世で名僧の誉れ高かった。万松寺の開祖。織田信秀(のぶひで) (1510〜1552)尾張守護代織田氏の支流にあたる織田信定の子。信長の父。勝幡城、那古野城(今川氏豊から奪う)、古渡城と居城を移している。1540年以降今川義元と1542年以降美濃の斉藤道三と争う。稲葉山城(岐阜市)では大敗を決っするが、のち帰蝶(濃姫)と信長の政略結婚により道三とは和解。信秀31才の時織田家の菩提寺として万松寺を開基する。末森城に居城を移し病死。万松寺所蔵の織田信秀公(木像) 織田信雄(のぶかつ 又はのぶお) (1558〜1630)信長の次子。弟信孝の方が生年は早いものの生母は長子信忠と同じ生駒氏だった為、次子となる。伊勢国司 北畠具房の養子となり北畠信雄と称する。伊勢の国を領有するが天正10年(1582) 本能寺の変の後、清洲会議により尾張清洲城主となる。その後柴田勝家側に組した弟信孝を自害させる。尾張長島城に移り、豊臣秀吉より尾張、伊勢、伊賀の三ヶ国を割譲される。天正12年秀吉と断行、徳川家康と呼応し小牧・長久手で戦うものの戦線膠着後の和議成立にともない秀吉に属する。大阪夏の陣においては家康側に属し大和、伊賀上野を贈られる。父信長追悼のため総見寺を、兄信忠菩提のため光勝院を開基する。 平手政秀(ひらて まさひで) (1493〜1554)織田信秀に仕え、天文3年(1534)信長の傅り役(もりやく)として那古野城に移る。天文12年(1543)信秀の命により内裏修築料として京都へ4000貫文を献納している。天文17年(1548)信長、濃姫の仲人役を努める。信秀の死後、信長の品行が改まらず死をもって諫言する。政秀の死を知った信長は、菩提を弔うため政秀寺を建立し、軍政に努めたとされる。 織田信秀の没年、天文21年(1552)3月3日 他諸説あり |