江戸時代

明治時代

<出典 大須商店街連盟発行 大須より>

<大正時代>

 大正期に入っても名古屋随一の繁華街、娯楽街として大須の地位は揺るがず、映画館は十四館を数えるに至った。明治33年に末広座で「写真幻灯蓄動機」の試写会が開かれて以来、 明治41年大須観音境内に文明館が名古屋で始めて常設映画館として登場する。45年には太陽館誕生と大須と映画との結びつきは強くなった。大正初期から中期にかけては、敷島館、世界館、電気館、文明館、港館、太陽館そしてニコニコ館などが散在。大須二十館と称せられた時期もあった。

 この大正期においての一大事は、大正12年の旭遊郭が中村へ移転したこと。これによって芸妓小屋や小料理屋は姿を消し、また、同年、市電門前町〜水主町が開通。七ツ寺、歌舞伎座は大通りへ移転した。七年には、中公設市場が設置され、現在の小林町に移ったのは末の13年である。

<昭和時代>

 昭和に入り、大須門前町(昭和2年)、万松寺新天地(3年)、万松寺筋東部(6年)、万松寺中部(10年)、赤門通り(10年)と、次々に発展会が結成され男子洋服などを初めとして定着し始めるとともに裏門前町も家具の街として栄はじめる。昭和9年、商品陳列館の移転によって「車馬の為」に赤門通りが開通、盛り場となり、大須地区全体が商業地となっていった。

 終戦を迎え、大須一帯が再興をはじめ、21年には「アメリカ村」登場。33年には返還されるが、この十数年の間に大須の町は、目に見えてにぎわいが失せていく。それは、復興土地区画整理事業による若宮大通り(100メートル道路)、伏見通りの設置や拡幅などによるもので、それまで広小路の中心部と連なっていた市街地、盛り場が分断されたためだ。明治、大正、昭和と歓楽街大須の代表は映画だが、映画産業の斜陽化により、しかも市電の撤廃とさらにダメージを受ける。名古屋駅,栄の大規模店舗,地下街への魅力へと顧客の好みが変わっていったこともあり,「陸の孤島」なるありがたくない名を頂戴するのもこの時期である。


《昭和14年午後4時》
 しかし一方で高度成長期に取り残されたこの「陸の孤島」が大須にさいわいした。画一化された近代的魅力とは違う下町大須の歴史としきたりを残すことに成功したのである。
 大須名物アーケードができたのは35年。万松寺が最初である。42年には地下鉄名城線栄〜金山間が開通し、大須の入り口には上前津駅が設けられた。45年には20年の戦火で焼失した大須観音の本堂が落成し、戦争の傷あともやっとここでぬぐいさられる。

 さて沈滞化した大須に復興ムードが盛り上がりはじめたのは50年代と新しい。同年名城大学の池田芳一氏の呼びかけで市民手作りの祭り「アクション大須」が催され、第二回も翌年に。52年にはラジオセンターアメ横がオープン、開通した地下鉄鶴舞線の大須観音駅の設置、53年「大道町人まつり」を開催、大須再興の話題には事欠かなくなる。59年第2アメ横が第1アメ横の好調の余勢をかってオープンする。人の目は再びこの庶民の街,ごった煮の街,古くて若い街に目を向ける。大須再興に拍車を掛け歓楽街、そしてパソコンの街へと再び盛り場のすがたをとりもどすことになる。
(加筆、一部修正 飯田俊市)


盛り場

 大須の現在は,觀音,萬松寺を中心に,幾多の史跡名勝と二十有余の劇場と更に七百軒の一流商店による十五の商店街が一大歓楽街境を形造り、名實供に「日本の大須」の貫禄を示してゐる。
 名吉屋の觀光ルートは大須を起點として快適なコースがいろいろ考へられ、買物にも、娯樂にも、大須程都合の好い所はない。
 最近この地域は區劃整理が行はれ、往時の面目を一新した。そして大衆娯樂の諸施設も総て茲に集まり、大須盛り場は近代化されて四時雑踏を呈してゐる。
 明粧夜の大須は、日本一を誇る大須門前のネオン大提灯,氷晶灯を初め、門前町通りの廻る町曾ネオン、新天地の大アーチ、萬松寺の軒燈サイン、その他各商店街及店舖照明は全国盛り場にその比を見ざる豪華なもので,絢爛畫をあざむく照明が醸し出す夜の雰圍気は、通行入を魅了せずにはをかない。
 又この地域の商店は他の商店街と異り、午後十一時まで營業をしてゐる。昭和十三年十月商店法が實施され、商店の營業は一率に午後十時までと限定されたのであるが、大須のみは名吉屋に於て唯一の例外地域と認定された。 これは大須が持つ特異性即ち大衆の慰樂と利益に必要であるとの見地から除外されたものに他ならぬ。
 觀光客が見物に、買物に第一に感ずる不便も大須に於ては緩和されてゐるわけである。

(昭和14年発行 「日本の大須」から)