昭和13年発行
日本の大須」表紙より

江戸時代

明治時代

大正時代、昭和時代

<写真提供 大門屋本店>

不死鳥 大須

 織田信長が清洲を居城としたことから清洲は繁栄を迎え、時が移り慶長15年 徳川家康の命により名古屋築城の為 武家屋敷、神社仏閣、橋、町屋、門までも清洲から移されますそれが通称「清洲越し」。

 大須の歴史は清洲越しから始まりますが、それはまた盛り場の歴史でもあります。現在では想像すら出来ませんが、大須観音、万松寺、若宮八幡社などの境内では連日 芝居、相撲、物まね、曲芸の興行が行われ大賑わいであったと記されています。現在は一年に3日しかありませんが、毎日が大道芸の日と云ってもいいかもしれません。戦前は縁日の人出はおよそ12万人とか

大須商店街休日通行量
  昭和54年 昭和61年 平成6年
万松寺通り 8,048 11,206 16,174
新天地通り 7,638 15,816  28,059
東仁王門通り 2,269 3,752 8,193
平成12年 通行量調査実施
観音通り 西 【平日】 4,298 【休日】 13,054
観音通り 東 【平日】 6,858 【休日】 16,354

 戦前は文句なくナゴヤ一といわれた盛り場「大須」も明治25年大須観音の大火、空襲による戦災、戦後の低迷期を乗り越えてと今回が三度めの復活であまりにも大須礼賛すぎますが、不死鳥大須なる言葉もなるほどと思える人出のこのごろ。これほどホームページがあるのは間違いなくナゴヤ一でしょう。実際のところ大須にしか名古屋に繁華街がなかったというのが正解ですが,”市内で最初”はともかく”日本で最初”も数多く大須っ子には自慢の種。

 ここでは紙面の都合から大須のミニコミ紙「大須商店街連盟 発行 大須」に抜け落ちていると思われる部分を随時書き加えてご紹介します。

ちなみに大須の住人に最も大須が賑わった時期を尋ねると

90前後の老人は「赤線のあった頃だぎゃー」
(殿方を羨ましがらせる答が返ってきます。)

60代 「昭和30年前半までは何売っても売れた。」
(映画が斜陽になる前の大須の繁盛ぶりが推察出来ます。)

そして50代より若い人に尋ねると「そんなもん今にきまっとるが」
(私なりに今の大須を紹介できればいいんですが)

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