明治時代

大正時代、昭和時代

<出典 大須商店街連盟発行 大須より>

<江戸時代>
 慶長15年(1610)、徳川家康の命により名古屋城が築かれ、碁盤割りの城下町が形成されつつあった。それ以前は、当時東国と西国を結ぶ唯一の交通路−鎌倉街道にそった松原続きの平原で小さな集落や神社仏閣が散在する農村に過ぎず,日置の荘と呼んでいた。築城以前の古図をみると天王社、若宮八幡、養辻寺、それに名古屋三左衛門の屋敷などがあるくらいで、その他は森と畑だけ。大須は熱田方面に通ずる松原続きの街道であった。

 築城から約三年間、町づくりが行われた南北は広小路からお堀端まで、東西は久屋町から御園町までが整然と碁盤の目のように区切られ、町人、寺社仏閣、橋など、あらゆるものが清洲から移された。これが世にいう「清洲越し」で、京町、茶屋町、伝馬町、袋町、長者町、伏見町といった町名ぐるみで六十七町が移され六十余万石の城下町が出来た。この時、三つの神社と百十余の神社仏閣も移されたが、碁盤割りの中へ入り込めたのは、ほんの一部。ほとんどは戦略的意味も含めて城下町の外郭を埋める形で配置された。

 碁盤割りの城下町のわずか南、大須へ真福寺(大須観音)がやってきたのもそうしたいきさつがある。真福寺と相前後し、同地域には、性高院、万松寺、七ツ寺、大乗院、阿弥陀寺、総見寺、大光院、大林寺などが移され、まさにあっという間にいらかを連ねた寺町がお目見えした。

 が、本当に門前町らしくなったのは寛永年間(1661−1672)になってからだ。城下町が出来上がるにつれ、名古屋の人口も急増。碁盤割地区が住宅難に陥り、しかも鍛冶屋などがたびたび火災を起こし、城が危険にさらされた。それを防ぐために大須地区へ町人を移転させようとし、木曽の木材を無償で与え家を建てさせたりもした。しかし、大須地区は松のカマボコ小屋が密集する貧民地帯、誰もが嫌がって積極的に住もうとはしなっかた。町名を゛橘町゛と、いかにも香ばしいものにしたが、一向に効き目はなく、苦肉の策として興行を打つ特権を与えたが、これによってどうにか一部の人たちが色気を示し、移り住んだ次第である。

 それでも住民の数は少ない。でも碁盤割地区との往来がはなばなしくなり、その間に神社仏閣、寺院の参詣者が増加。さらに大須観音、清寿院、七ツ寺などの境内で行われた芝居、寄席などの小屋にも人が集まりだした。歓楽街大須のスタートである。

 現存する名古屋城下を表した最古の絵図「万治年間(1660ごろ)名古屋図」には、大須観音をただ゛観音゛と表記。しかしそれから五十年後の「宝永・正徳年間(1711前後)尾府名古屋図」には、はっきりと「北野山信福寺、大須観音堂」と記され、大須観音が名古屋城下でどの程度、重視されていたかを思い知ることができる。大須の名称が始めて地図に記されたわけである。

 さて大須に登場した芝居や寄席は、貧弱な芝居小屋で、芝草の生える地面に座り、囲いは菰(こも)やよしず。芝居小屋とは名ばかりで、人がたくさん集まっても商店というものは皆無に近い状態。芝居小屋の付近に掛け茶屋や参詣者目当ての土産物を売る店がある程度で、とても商売の街といえるものではない。

 芝居、寄席の小屋の隣では、大道芸人も姿をみせた。尾張藩のある武士が記した日記によると元禄6年(1693)の春、彼はあやつり、芝居、軽業、声色、踊りなど観て、帰路は七ツ寺で茶粥らしきものを食べた、という。当時の大須をおおよそ思い浮かべることができそうだ。

 大須が本格的ににぎわいだしたのは七代目藩主、宗春の時代になった享保16年(1730)から。それまで武士たるもの芝居や寄席にうつつを抜かすな、とされていたが、宗春は自ら芝居や寄席に出かけ、周囲の者や町人をびっくりさせた。ついでに遊郭まで開業させ、名古屋の殿方を喜ばすやら驚かせるやらの政策を打ち出した。お寺と遊郭は水と油のようにも思いながらも伊勢神宮の参拝客相手の「お伊勢参り」と同様に,人は大須へと集まって来る。

 前津小林村の富士見ヶ原,葛町とあわせ尾張三廊と呼ばれる遊郭はまず西小路に設け、大須観音の西南、東輪寺の西北へと拡大させていった。入り口は北門と南門の二つあり、中は袋のネズミのような構造。家屋はすべて美しく、とくに山形屋と備前屋がりっぱなたたずまいだったという。中には女郎屋と一緒に蒲焼き、うどん、田楽を商売にする店もあった。

 しかし世の中、楽しいことはそう長く続かず宗春が失脚した元文4年(1739)、遊郭はもとより芝居も禁止。芝居はそれでも黙認されたが、遊郭は全面的に禁止された。以後、大須で遊郭が登場したのは明治に入ってからだ。

 芝居、遊郭は禁止されたが、見せ物は、その対象にならなかった。軽口咄(ばなし)、釣り人形、講釈、鳥の鳴き声の物まね、独楽回し、曲馬、影絵・・・など、多種多様の見せ物が行われた。中には天保3年(1832)、大須山内の外で「みいれ駒」なる見せ物が行われたが、今で云うストリップショーの一種。遊郭が禁止されていた折り、評判になったのは言うまでもない。