江戸時代

大正時代、昭和時代

<出典 大須商店街連盟発行 大須より>

<明治時代>
 芝居は、文化年間(1804〜17)になり、再ブームを呼び、幕末までの60年間にわたって親しまれた。その後、一時、不振に陥ったが、明治に入り、再興の道を歩みだした。同時に遊郭も復活。明治6年、大須観音に近い北野新地に旭遊郭が設置され、淫売を厳しく取り締まったこともあって大繁盛した。またたく間に貸席茶屋百五軒、芸妓百十二名、娼婦三百十八名にふくれあがった。

 遊興料金は、娼婦が上等で一昼夜一円五十銭、一仕切り(時間)三十七銭五厘、線香一本(ショート)十五銭であった。下等の線香一本は、十銭である。

 遊郭の出現により、大須の夜は活況を呈し、不夜城の趣きがあったが、そこにたむろしたのは博徒、都市細民、インテリ、あぶれ者たちで、名古屋の自由民権運動は、彼らの手によって展開されたといわれる。明治11年には政治結社第一号が誕生、以後短期間のうちに次々と結社が設立され、当局もついに統制に乗り出した。政治集会のたびに厳しく取り締まるまで、激しく対立することもしばしばあった。


明治14年5月20日撮影 大須付近実景
<写真提供 大門屋本店>
 明治4年(1871)11月11日から5日間名古屋博覧会が開催されている。(日本で最初の博覧会の名がついたもの)総見寺境内に工芸博物館、県商品陳列館ができたのは、この後で猿面茶席、松月斎の茶席などをはじめ、名古屋の名物として名を馳せていた。

 明治19年には、名古屋で最初の電灯が門前町にともり、43年には新栄〜上前津、44年には上前津〜門前町に路面電車が走り、45年には、名古屋初の路面舗装が大須仁王門通りに完成。文明開化の先端を走り、隆盛を極めた時期である。

 一方、このころ大須は、商店街としても目指ましい発展を遂げた。人の集まるところ商売ありのたとえどおり、にぎわいだすにつれ娯楽施設ばかりでなく、物品小売業、飲食業などの店が定着。

 明治25年(1892)3月22日 宝生座からの出火により大須観音本堂、五重塔、仁王門、庫裡のほか町屋など134棟を類焼する大火となる。とくに五重塔は倒壊せず、炎に包まれたまま燃え尽きたとある。

 明治27年 菊人形の奥村黄花園(こうかえん)が万松寺境内に始まる。東京、神戸、博多に文園を進出させるほど菊人形の興行は、大盛況であり当時の盛り場大須の象徴的存在であった。

 ”写真は大須”と呼ばれたのも、ちょうどこの時期で、明治10年代には雨後のたけのこごとく、写真館が開業した。そして、大正3年、遊郭の”張見世”が禁止され、その代わりに写真を張って客にサービスしたため、これらの写真館は、大きな売り上げを得た。 そうした商品が集まり、明治29年に名古屋初の大須門前大商組合、38年には万松会がそれぞれ設立された。